昭和五十四年 四月二十二日  朝の御理解


  御理解第七十八節

 『神の気感に適うた氏子が少ない、身代と人間と達者とが揃うて、三代続いたら家柄一筋となりて、これが、神の気感にかのうたのじゃ。神の気感に適わぬと身代もあり、力もあるがまめにない。賢うても身代をみたすことがあり、又、大切な者が死んで身代を残して子孫を絶やしてしまう。神のおかげを知らぬから互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。』



 まず、神のおかげを知らなければならん。それを私共、様々な願い事というのはいっぱい持っとりますが、その願い事から始まるのが信心です。で、おかげを受けて、神のおかげをおかげと知る。おかげをおかげと分かるね。そこから、段々、神の大恩が分かるようになる。神の大恩が分かる様になると、子孫も続きと仰る。身代も出来と仰る。ね。しかも、一年勝り代勝りにおかげを受けることが出来るという。皆さんが、今、合楽でおかげ頂いてる方達は、まずは、殆どが、神のおかげを知っとられる方達ばっかりだと思うんですよね。神様のおかげというものを知っとる。そこでね、神の大恩が分からにゃいかんです。それは、お話を聞くと「あれも神様のお働き、これも、神様のおかげ」と、もう、とにかくこの世には、もう、本当に神様のおかげだけしかない、神愛だけしかないということが分かってくるわけです。ね。けれども、これが神の大恩を知る、大恩ですよ、大恩を知るんですから、その大恩に報い奉る心が生まれてくるから、子孫も続くのです、身代も出来るのです。一年勝り代勝りにおかげを受けられるんです。ね。だから、この神の大恩を知るということはね、分かるというだけじゃない。もう、いうならね、心で分かり体で感じられるおかげでなからなきゃいけないのです。しかもそれは、天地の働き、天地の大恩というのは、天地の働きそのものをおかげと見る。これはもう、ここんところがね、解き明かされる時に、合楽理念に、が、そこから生まれておるのです、合楽理念は。一切が神愛とこう、ね。それを、なら過去数千年の間に、色んな宗教が出来ました。中でも仏経とかキリスト教なんかというものは、もう、本当に全世界に広がっていきましたけれどもね、一切が神愛とは知らなかったとか、説き得なかったと言うかね、そこで半分は罪であるとか、因縁であるとかと言った様な事になって来たわけなんです。ね。だから、助かり様のない様な難しい事にもなりますけれども、教祖の神様のご出現によって、始めて天地の大恩が、それこそ、縦横無尽に解き明かされたということになるのです。ね。それを、言うならば「成程そうだな」と実証をもって説いておるのが合楽ですし、合楽理念なんです。ね。ですから、どうでも、その神の大恩が分かる。

 昨日、研修の時の話題にしたことでしたけれども、ん、昨日、福岡から、この前の月次祭に、長い間、難渋な病気を持っておられましたが、それが、全快のおかげを頂いて、熱心に、まぁ月次祭たんびくらいではありますけれども参って来る婦人があります、若い婦人です。それがその、身体も元気になりましたし、まぁ、親にも、主人にも、不行届きのない様なね、さしさわりのない様な、何か勤め口を、生みだしたい、見出したい、そういう、お繰り合わせが頂けます様にと言うてお願いをしてあった。昨日も、朝からズート町を福岡のことですからね、町を廻って表に色んな募集してあるのを見ながら、あのほとんど、一日というか半日ですよね、半日廻って帰られた。とうとう、自分に適当な仕事がなかった。ね。けれども「今日は本当に、よか修行をさせて頂いた」と思うて、それこそ「よか修行させて頂いて有り難い」と思うて帰らせて頂いたら、お母さんを尋ねて或る人が見えておった。そして、その「こういう様な仕事があって、お宅の嫁さんに、丁度都合のようなかろうか」と、「まぁ、時間で何時間、そして、いつと、いつという様な時間なら、丁度お宅の嫁さんにようなかろうか」と言うて、それも条件もよくて、まあいうならそこの嫁さんを知ってございますから、それで「もう、気心も分かっとるからどうじゃろうか」と思うて、今日は相談に来たという人が見えとった。もう、自分の願ったり叶ったりと思うて、早速お受けさせて頂いてから、その足でお参りお礼参拝をさせて頂こうと思うた。お礼参拝をする時に只、お礼参拝だけじゃ相済まんからと、自分の周囲の難儀な人達を思うてみた。あちらは寝てござる、あそこは人間関係で大変困ってござる。あそこと、あそこだけはどうでもおかげ頂いてもらわにゃならん。まあ、わざわざ行ってお導きまでは出来んにしても、とにかくあの方達の事をお願いしょう。と自分のお礼と、その三人の方達のお届けをして、その方達のことを願われて、お礼を言われた。これは、やっぱおかげの実感ですよね。ね。あの辺のね、日頃、教えを頂いとかんと「今日も結構な修行をさして頂いて有難い」という心が生まれてこんのですわ。「一日、半日も、今日は廻ったけれども、とうとうなかったと、おかげ頂きらんじゃった」とこう言うんです。これではおかげ頂っきらんです。本当のおかげになってこないです。ね。「本当に、特別なおかげを受けた」と思うて、思いの実感が、「ただ、お礼参拝すりゃそれでよい」というのじゃない。この方の場合は、三人の方達のね自分の周囲に難儀な人、困った人のことを思うてみたら、この方達はどうでも助かってもらいたいと思うた。だから、その方達の一人一人をお願いのお届けがあったのです。すぐ、その後に、夫婦でこの頃、ある県会議員の方が、もうこれは絶対、まぁ、いうなら落ちるはずのが、お願いをしておかげを頂いた。不思議な不思議なおかげを頂いた。で、そのままお礼に出て来ません。と思いよったら、「昨日、もう何やらかにやらで、お礼に出て来れなく、まぁ今日は、家内に勧められてお礼参拝をしてきた」とこう言うね。まぁ、それでも分からんのだからよいのだけれどもね。本当に、もしあの、言うならば、その時に、とても難しかろうと、思い通りに落選しておったら、どういうことになっておっただろうか。おかげを頂いて当選をした。けれどもです、それを「やっぱり自分にも、まだ、信用が残ってたんだなあ、自分にもまだ」といった様なものが強くておかげということの実感が、もう薄かったに違いはないね。もう、何日も何日もしてから、ようやくお礼参拝。それも、んならもう、それこそ「あれやら、これやらを整えて、そして神様にお礼を申して下さる」というのではなくて、「只、こうしてお礼参拝をすれば、もうそれで事足りた、済んだ」といった様な感じのお参りであった。

 皆さん、どう思います。「お願いにはあわてて出て来るけれども、お礼にはあわてて出て来る氏子は少ない」と仰るが。そういう、少し、私、信心させて頂いてね、おかげを感じ実感したらね、それが放ってはおかれない。問題は、おかげの実感、どれだけ、おかげをおかげと思っておるか。百のものであるならば百、そのままおかげを頂いておるね。「八十、五十。やっぱり神様のおかげということやろうか」という程度のものもあるかも知れません。ね。おかげを、いよいよ、おかげと感じ切らない人もあるかも知れません。そういう、おかげの実感が天地の大恩とつながって来る様な、おかげ頂かなければ、なんですか、子孫繁盛家繁盛ね、子の代よりも孫の代という様にです。代勝りのおかげになっていくと、ここにはっきり「神の大恩が分かれば」と仰るのだから。只、神のおかげを分かって、それを、おかげと実感して、そこに神恩報謝の心が生まれてくる、神恩報謝の心が生まれてくる所には、不平があろうはずはない、不足もあろうはずがない。しかも、痛いこと、痒いこと、冷たいこと、熱いこと、降ること、照ること一切が神愛だと分かる時に、いわば神愛の中に浸っておる有難いという、そのまま情念の様なものが生まれてくる。その情念が信心生活ともなってくる。有難い神恩報謝の生活が出来る様になるとね、もう目先目先のおかげじゃない、もう絶対の道がそこに開けてくるのですね。「お願いをした、成就した。」その時には、おかげと思うだからお礼参拝もする。「こんな大変なことをお願いをした。」けれども、おかげを頂けた、けども「まぁ おかげじゃろう」くらいな気持ちの人もあるし、おかげをおかげ実感しきらない人もあるね。それが、次の信心によって、それがはっきり分かっくるね。今の、福岡の婦人の場合なんかはね、それを実感して、とにかくおかげを頂いた。その足でお礼参拝しておる、しかも、只のお礼参拝じゃいかん、ね 色々自分の周囲の難儀な人達を思うてみた。あの人にも助かってもらいたい、この人にも一つ信心が分かってもらいたいと思う人達の、いうなら名前で自分、他三名のお届けがあった。こんな、難儀な人達ですからというてお願いがあったね。おかげをおかげと実感すると、そうせずにはおれなくなって来る。神様のその働きに報いなければおれなくなってくる。神様が何というても喜んで下さるのは、神様の、いうならば、氏子の助かりであり「神の願いが成就していくということに、自分が、その手にも足にもならせて頂こうか」という様な願いがおこってくる。ね。それが、段々いうならばね、「神のおかげを知らぬから互い違いになってくる」神の、そういう信心体験から、神のおかげがわかってくる。しかも、そのおかげの深さ広さその範囲が分かってくる。始めて神の大恩が分かるということになるのです。神の大恩が分かれば、自分の代だけじゃない、子にも孫にも伝わっていく、繁盛の道も開けてくる。そういう、その過程の信心がです、この七十八節の初めの所、「神の気感にかのうた」という様なね、言葉を使っておられますが、「神の気感に適うた信心」だと言うふうに思うのです。「神様ちゃ、願いのある時だけ頼みに行く、人間の力ぢゃどうにも出来ない時だけお願いをする。」それが、神様かの様に、信心かの様に思うておった時代から、段々、いうならば神様のおかげがいよいよ分かりね、そして、神の大恩がわかるということになってこなければならんのです。

 昨日、私はお知らせを頂いた。これも昨日の研修の時に話し合った事でございますけれども、御心眼にね『金仙華』という花があるでしょう、黄色いそれを沢山束にしてくくってある。それが、そこにコロッと寝かせてあるんです。もう、どっか花市場なら花市場に出そうかといった様な感じで、金仙華が荷作りしてあるところを頂いた。「どういう事ぢゃろうか」と思わせて頂いたことがこういう事でした。『きんせんか、おこしてつかえ、道のため、つこうてへらぬ、徳つくりつつ、徳つくるため』と頂いた。「金仙華、おこして使え、道のため」ね。分かります。皆さん、お宅あたりでも、お金の寝とるとがありゃせんですか。ちゃあんとタンスの中に、銀行にも持って行かれん、言うならへそ繰りですたい ねぇ。これは、まあ、そういうへそ繰りだけのことじゃないです。寝とるち言うなら、只、銀行利子位で銀行に入れて寝むっとるという、お金がありゃしませんか。金仙華を、寝ておるということは、私はお金が寝ておるということだと思うたですね。だから、それを起こして使うね。起こして使うということは、どういうことでしょうね。まそれで、映画ども見げ行け、酒でん飲み行けちいうこっちゃないと思うですね。最後にあります。「使うてへらぬ、金百両」といった様な事を申しますよね。これは、お徳の事です。なら、合楽の場合なんかそうでしょうね。使うても使うても後から後から、ちゃんと必要な金が必要に応じて頂けておるというのが、今の合楽の現状ですね。「起こして使え、道のため」ということ、「道」というのはどういうことか、言うならば、御神願が成就する。神の願いが成就することのために、使わなきゃいけんのです。只、自分で贅沢しょうという事だけじゃないです。自分で買物しょうという事じゃないです。道のために使わなきゃいけない。それも、もう絶対と思われるものの中に、その行事がなされなきゃいけんのです。ねぇ。「使うてへらぬ、金百両」のためにね、「使うてへらぬ、徳作るために」ね。そこんところがね、今日の「神の大恩」が分らんとでけんのです。神の大恩が分かると、ここに神願が成就しょうとしておる、例えて言うならば、いよいよ、明日は合楽建設の願いが成就、起工式がございます。ね。もうこれなんかは、言うならば、もう、いよいよもって間違いのないね、神様の願いが、そういう形で成就することになるのです。手洗いの上に起工式のあれが出てますね。中に絵が出ております、ああいうものが出来上がるのです。合楽が大きくなるといった様なものじゃないです。神様の願いが成就するのです。だから「神の願いが成就することのために、手にも足にもならせて下さい」と言う願いを、皆さんがなさっておられますからね。そこで「本気で手にもならせて頂こう、足にもならせて頂こう。」というその中身としてです。まず先立つものはお金ですね。そのお金もですね、「皆さんの所で、寝ておるお金がありゃしませんか」と銀行の利位の事じゃつまらんね。使うてへらぬ、徳を作る事のために使わなきゃいけん。起こして使わなきゃいけんのですね。「使うてへらぬ、金百両」とね。文男先生が、いつもお話します様にね、ここの、御建築の時に、まぁその時分は、やっとかっとの時分だったけれども、どうでも百万円のお供えをしたいと願いを立てた。出来んなら五年かかっても、六年かかっても、これだけ成就したいと思いよったけれども、お願いを立てさせて頂いたらね、またたく間にというわけにはいかなかったけれども、もう、本当に思い以上に早く、お繰り合わせを頂いたね。それだけじゃない、「それ以来、私は百万という金だけには、不自由せん」といってるでしょうがね。もう、十年前の話です。だから、十年後の今日では、言うならば十年前が百万だったから、今度は、これこれと願いを立てて、その事に、今取り組んでおります。例えば、一千万なら一千万という、それに取り組んでおるとするならばですね、言うなら、一千万の金だけには、もう不自由せんで済む様になったという、お徳がはっきりそこに感じられるのです。ね。「そりけんち言うて、銀行に借金の方はあるばってん、お金の方はなか」という人達でもです、願いを立てなければいけんです。願いを立てると、例えば、五年かかるとが、六年で済む様なお繰り合わせを頂けるのです。だから、皆さんがするのじゃない、皆さんがその真心を、一心を立てれば神様が働きなさるという事ですね。寝とる金をもっとる人は、どうでも起こさにゃいかんというて、なら、腕こまぬいとるだけじゃでけん。こういう、大変な神の願いが成就しょう、としておることに対してですね、「手にも足にもならせて頂こうという願いを立てなければいけない。」

 昨日、今村和子という先生がおります。昨日、ここに出てきて「先生、今日は、まぁ 何やら、かにやら分からんけれども、やっぱり御神意のありそうな御夢を頂きました。」と言うてお届けをするんです。「どういうお夢を頂いたかと」いうたらね、「沢山なミミズがおる」と言うのですね。ミミズ、それを、若先生が一生懸命、それに土を被せて行かれる所。けれども、そのネズミじゃなかった(笑い)ミミズじゃった。ミミズがですね、ピョンピョン、ピョンピョン飛びよるげな、こう、土を被せていきゃ、その後ろからピョンピョン飛び出てくるげな。どういう事だと思うですか、素晴らしいお夢を頂いたね。あのミミズというのは、最近、ミミズを養殖しよるですね。沢山、そしてあれをすると、その土壌が出来るんですね。素晴らしい土壌が、素晴らしい土になる分けなんですね。この頃から、中村徹美先生が頂いたのもそうでした。あれは、川魚のどじょうぢゃん。土壌ということは土を、いよいよ豊かにしていくという意味なんです。夕べ、今村和子先生が頂いとるともそうですね。いよいよ信心の地盤、信心の基礎、信心の土壌が、いよいよ豊かに肥なければ、一人でに物が出来る様なおかげになってこないね。一人でにね「とかく信心は地を肥やせ」ね。信心をね、「土地を肥やしておけば、一人でに物が出来る様なものじゃ」という御徳の世界ですね。限りなく種を蒔きさえすりゃ良い芽が出て、良い稔りになる。良い花が咲くという事になる。まぁ「とかく信心は地を肥やしとかないけん」ね。そこで、沢山なミミズを一つね、お互いの心の中に、心の中に土で受けていく。そして、もういよいよ、もっともっと豊かな心を頂かしてもらわなければならないと同時にね、それこそ、「おかげは受け徳受け勝ちである。」。「こういう時に、おかげを受けなければ何時おかげをうけるか。こういう時に、徳を受けなければ、何時徳を受けるか」といったような、言うならば合楽では、時期に突入しとるのです。信者一同が打って一丸になってお徳を受ける。もう、成程、○○は合楽理念をもってする外はない、と いうような、お徳もおかげも頂けれる時期を、ここに迎え様としておるのです。ね。そこでてすね。寝とる金はなかっても、これから一つ、いうならば、「お繰り合わせを頂かなんならん事を願え」という。「どうぞお願いします。んなら一千万お供えしますけん、一千万お繰り合わせ頂きます様に、どうぞ儲かります様にお願いします」じゃいかんというのです。ね 橋の上から、人がお魚釣りよるとは、こうやってながめとるだけじゃいかんち言うのです。ね。それこそ「魚釣る人、見ておる人」その見ておる人ではなくて、釣る人でなからないけん。「ほう、御造営が大分、出来て来た。」という、見とるだけじゃでけん。ね。本気で釣る人にならなでけんね。そこにはです「おかけは受け徳、受け勝ち」と仰る様に、「もう、お前は十尾釣ったけん止めとけ」という様な、神様ではないということ。ね。それを釣ろうと思えば、それこそ限りなしに釣る事が出来るためには、見とるだけじゃでけん。それに、自分が突入しなければ、そういう神様の願いが成就する事のために、いよいよ自分というものをね、身も心もそこに捧げなければいかん。つくしくらべであるね。信心とは、本当に、つくしくらべね。起工式という、いうなら、御造営の一線上にお互い立たせて頂いて、そのいうなら、御造営という事に対して、お互いがどれだけの事のものが、つくし得られるかという事を、私は一つ、心の底から、その事を願えれる信心を頂いてもらいたい。そして、お徳を受けて貰いたい。そして、「合楽理念をもってすれば、かくおかげが受けられる。もう、子にも孫にもこれならば伝わる」という確信をもった信心を頂いてもらいたい。ミミズがピョンピョン飛び上がっておるということはです、もう、それこそ、私を餌にして下さいと言わんばっかりの事ではなかろうかと、私は思うた。土壌にもしていかんならんと同時に、ね ピョンピョン飛び上がりよるとを、いうなら、魚釣針につけるとはミミズでしょうが。ね。そこに限りなく釣り上げられる。いうなら、釣り上げられる。釣ろうという竿の用意をせんならん。ね。川にも入って行かなんならん、そして、それをやはり釣り三昧の境地とでも申しましょうか、釣ることの喜び、釣ることの楽しみを分からせてもらい、お役に立たせて頂くことの喜びを分からせてもらう。そういう働きに、私共がなった時に、初めて神恩に答える働きという事になって来るのじゃないでしょうか。神の大恩が分かるという事は、そういう事じゃないでしょうか。「合楽様のおかげで」と皆が言いますけれども、なら合楽様へのおかげというものをですね、こういう時に、その大恩に報いる時は、またとないという様な、いうなら、千載一遇の時期に恵まれているのである。合楽信奉者の全信奉者がです。打って一丸になって、そういう働きに、いわゆる「参画させて頂く。預からせて下さい。」という願いをもって、おかげを頂いていく。そこから「始めて神の大恩が分かった」という事になるのじゃないでしょうか。「神の大恩が分かればね、子孫も続き身代も出来一年勝り、しかも代勝りにおかげがうけられる」とここでは言ってありますね。只、聞いて「ほう、成程なあ、ひとすくいの水でも神の御恵みだね。空気も神様の御恵みによるものだ」という様な事を聞けば分かるんだけれども、分かったら、さっきの福岡の婦人じゃないですけれども、おかげと実感したらお礼参拝を、その場でせにゃおられない。自分だけじゃない、それこそ神様の喜んで下さる。言うなら難儀な人の、言うならば御取次でもね、させて貰わなければ、おられないといった様な心が、いよいよ育ってくるということが、今日皆さんに聞いて頂いた事に、内容になるのでございます。
「金華山、おこして使え、道のため、使うてへらぬ、徳つくるため」ね。皆さん、お徳が頂きたいならね、何時もかつもお徳の頂ける時期というものはありません。神の願いがいよいよ成就することのために、私共は、参画させて頂かねばならんと思います。どうぞ。